2019年3月22日金曜日


教育の基本 60 4月から「道徳科」としての授業が

 道徳科としての授業と「教科」以前の道徳の授業はどう違うのであろうか。
 教科になると教える内容を「教師が意図する方向で結論を出さなければならない。」と言う事であろう。
 道徳の時間ではいろんな意見が出ていろんな結論が出てそれぞれの立場で自分はこう考えるというところで一つの結論を押し付けることはなかった。
価値判断に子供の意志が反映されてゆとりがあった。
しかし、「道徳科」として教科になると結論は一つに絞り込まれ国家が求める価値観を子どもの心に落とし込まなければならない。
教育基本法や学習指導要領が求める価値観が唯一絶対として指導内容を貫くものになり、これから外れると道徳教育を担当する指導主事や校長の指揮下に置かれた道徳教育推進教師によって強い指導がなされることになる。
 具体的には「道徳科」の教科書の一つ一つを丁寧に見ていく必要がある。早速、問題になっているのが6年生の教科書に掲載されている「星野君の二塁打」という教材である。バントの指示に対してヒットを打ってしまった星野君。
 監督の指示と違うことをやってしまった星野君の行動について「監督の指示は絶対。それを守らなかった星野君が悪い」と短絡的に結論付けてよいものか。
 監督の指示に忠実だった日大アメフト部の問題も話題にしていろいろな面から議論を深めるゆとりが必要であろう。
 これからの「道徳科」の指導については、保護者やその他大勢の人たちが参加して国民全員の教育課題として進行させていくシステムづくりが喫緊の問題である。
 個人には個人の夢があり、家庭には家庭の方針があり、国家には国家の目的がある。個人の夢や家庭の願いを打ち壊されないように監視しよう。


  教育の基本59 序列・差別から、「個性」の伸長へ

 競争させることによって確かに人を伸ばすことができる。しかし、競争は序列化と差別化につながっていく。
 国民の分断を図るには「競争社会」にすることが手っ取り早い。家族内にはじまって地域の隣人同士でも、一人一人の身体の奥の方に序列と差別の芽が潜んでしまう。
 相手をけなす攻撃型社会になりやすい。そうなると国民の統一や団結は難しくなりてんでばらばらの社会になって少数の人達によってコントロールがしやすくなる。
 戦後70年かけて作り上げた社会がこの実態である。
 ここまで変化した社会の流れを変えるキーワードは少子高齢化と情報化社会である。
 先日、岩屋防衛大臣が「沖縄には沖縄の民主主義があり、国には国の民主主義がある」と、沖縄の民主主義と日本の民主主義は違います。と、大変な失言をしてしまった。それに対して、沖縄の県知事玉城デニー氏が「沖縄は日本の国ではないのですか。」と反論した。
 26日の閣議後会見の発言を問われ、「(沖縄と日本の民主主義は)全く同じだと思う」と釈明した。
 岩屋氏は「地方における民主主義も大切だし、国を単位とする民主主義の営みも非常に大切だと、そういう思いで申し上げた」と意味不明の説明をした。
 これは序列化と差別化の国を挙げての見本である。
 戦後、年功序列と終身雇用が潰されて働き方の改革という名の下で弱肉強食時代に入った。競争社会は弱肉強食への入り口である。今一度、新しいタイプの「年功序列と終身雇用」を考えてみるのも面白いのではと思うが、到底無理な話であろう。競争社会・弱肉強食社会が今の社会システムを守るには好都合なのであろうか。
 競争は必要である。しかし、個性を伸ばし「人格の完成」を目指す教育こそが教育の根本である。

2019年3月9日土曜日


   教育の基本 58 国民主権の国家を支える「道徳教育」

 道徳は個人の心の問題であると同時に、国民主権の国家を支える教育の核心でもある。
 国家として当然国家の在り方や国民の理想像を掲げなければならない。
問題になるのは、時の「権力」によって国家像や国民像が都合の良いように政治利用されてきたことである。
 憲法も教育基本法も学校教育も国民の主権に基づく正しい方法で決定されたものでなければならない。
 今、憲法も教育基本法も学校教育も政治の力で変えようとしている節目の時代である。すでに教育基本法や学習指導要領が変えられ、学校教育の中では「道徳科」が新設された。
 道徳が「教科」に格上げされた意味と文科省が全国の教育委員会に通達している文章に目を通し、次に来る「憲法改正」が真に国民主権の生活を守るものであるかを見守っていかなければならない。

 具体的に見守っていく方法として、学校における「道徳科」の実践と憲法や教育基本法のかかわりを検証しながら確かめていく行動が必要であろう。
 教育は人である。教員養成課程の実態、教員採用試験の問題、各学校における教育課程の中身と実施状況などを関係する人たちと問題を共有して幅広く付き合わせていくことが重要になる。

 一国民としては、「我が子をどのように教育して欲しいのか。」を発信していくことから始めよう。
 幸いに、発信手段を国民一人一人が手にしたことは国民による監視活動にはもってこいである。国家による個人の情報検閲が始まったことはこれから問題になるだろう。国が個人の端末を自由に操作し内容を確認できることを認めた国はそう多くはなかろう。あることはある。
 平成から次の元号への変わり目は国家を動かすチャンスでもある。

2019年3月7日木曜日


教育の基本 57 「道徳科」と「修身」

 教科になった「道徳」と教科であった「修身」を比較してみると「道徳科」になった道徳教育の問題点が少しは見えてくるのではと思う。
 戦前の道徳教育は「修身」といわれ、文部省が設置されるとすぐに始められた。明治政府は国家の目線で国民を形成していく道徳教育に乗り出した。
 以後、大正、昭和と戦争が終わるまで国家の力で国民の形成に「修身」は政治利用され続けた、
 1880年、教育令の改正で「修身」が全ての教科のトップに位置づけられ、学校教育に影響を与えた。
 1904年以降は、小学校は文部省作成の「国定教科書」を使用するように定められ、日清戦争、日露戦争へと教科書の内容は改定に改定を重ねて国家の方針を教育の中に取り入れていった。
 特に日露戦争の1910年に改定された教科書の内容は、当時の社会主義思想の流れを抑えるために「天皇を敬え」「家族を大事に」といった国家主義・家族主義の教育内容に変わっていった。
 例えば、「勇気」も「忠義」に変わり、天皇のために尽くす勇気となる。さらに教科書の編集にも軍人が介入するようになり教科書の内容も全体主義、軍国主義の「修身」になっていった。
 さて、道徳教育が「道徳科」と教科になることによっての一番の問題は「評価」である。
 道徳という本来心の問題をどう評価するかということは大変なことである。
道徳性の評価の基準はどうなるのか。点数がつくのか、ABCでいくのか、文章表現にするのか。「道徳」の評価が進学や就職の内申になるのか。
 すぐすぐには問題が出ないように配慮するだろうが、やがて徐々に国家が望む方向でじわりと定着させていくのが国家のやり方である。
 10年後には、道徳科の評価の問題も内申書の問題もかたがついて定着していることだろう。2029年の学校教育の実態を眺めてみたいが、もう時間がない。若い人にまかせよう。


教育の基本 56 日教組(日本教職員組合)の致命的失敗は

 長い歴史を持つ日教組が現在の状態に後退したのは、教育の基本である「道徳教育」を軽く扱ったことにある。

 戦前の「教育勅語」や「終身」に問題があるという理由で「道徳教育」まで否定的に扱ったことが教師の組合としては失敗であったと思う。
 反対するにしても、教育の根本は子どもを善く導いていく「道徳教育」であるので教師である以上真正面から「道徳教育」を請け負わなければならない。
 もっと丁寧に「教育勅語」や「終身」について語り、日教組が掲げる具体的な道徳教育の中身を国民に提示する必要があった。
 失敗の第2は、領収書の要らない金を幹部が自由に使ったこと。選挙が近づくと「カンパ」という名のもとに相当な資金を集め、その金は執行部の意志で自由に使った。使途不明の金が組合を後退させた。
 失敗の第3は、組合幹部と政権与党とがなれ合いの状態での裏取り引きが一般組合員に対する信用を無くした。組合を立身出世の踏み台にした。
 中でも、教職員組合としての一番大きなミスは「道徳教育」に対する日教組の取り組みである。
 これから日教組を復活させるには、子どもを善く導く「道徳教育」を組合活動の中心に据えて、子どもを善く導くことに使命を持つこと。無理な話であると思うが。
新しい器をつくらなければ新しい組織も新しい運動もできないだろう。組合が自ら墓穴を掘った面と権力によって潰された面から考えていくと新しい方向が出るのかもしれない。
さて、来年度から道徳教育が正式教科になる。学校現場ではどのような変化が起こるのか。国民の一人として目の離せない問題である。
正式教科となってもすぐに問題が現れることはない。問題の出そうな芽が見えるだけである。正式教科となった「道徳」と正式教科であった「修身」を比較しながら、歴史は繰り返すものなのかどうかを検証してみたい。


教育の基本 55 豊後が誇る日本一自分に厳しい教育者

 姪の娘(又姪)、1年生の作文を聞いて、広瀬淡窓、日田咸宜園(かんぎえん)の塾長を思い出した。
 善い行いをするとピンクコインが溜まり、悪い行いをすると青コインが溜まる。この発想は江戸の私塾、咸宜園の広瀬淡窓の「万善簿」(まんぜんぼ)の考え方と同じではないか。
 万善簿とは、自分の行いを善悪に分けて、善行には白丸、悪行には黒丸をつけて自分の行動を厳しく律した。54歳から始めて12年7か月で善行白丸が一万個に達した。
 万善に達した後も生涯、万善簿をつけ続けて、75歳で人生を閉じた。

 これほど自分に厳しい教育者はそんなにはいない。大分県の誇りとして永遠に語り継ぎ、教育の原点を学んでいきたい。
 咸園の「咸」とは、誰でも、「宜」とは、よろしい。「園」は、場所。
 誰でもよろしく受け入れる場所が咸宜園である。身分、年齢、賢愚、貧富を問わず学問に対する意欲のあるものはすべて入塾を認めた。
 公的資金をあてにせず塾生の授業料のみで日本最大の塾を経営した。淡窓は塾生全員に塾の職務、役割を分担させて塾を経営し、徹底した競争主義で塾生の力をつけていった。全教科試験によって昇級を決め、等級性を取り入れ、学籍簿で塾生をランク付けた。
 試験で合格点を取らなければ、上の等級には進級できなかった。
 一方、教育の目的は「人格の完成」と人格を高める心豊かな人間の育成に力を入れた。全人教育の基本に道徳を据えて「詩心」を養い感動の教育に関心を示した。

「鋭きも鈍きもともにすてがたし、錐(きり)と槌(つち)とに使い分けなば」と、個性を伸ばす教育に力を注いだ。
 「大分の教育」は広瀬淡窓についての研究を深め、現代教育を見直す材料にしなければならない。


教育の基本 54  子どものことは子どもに聞いてみよう

「おじちゃん、Yちゃん(小学1年)の作文が12時45分からOBSラジオで放送されるから聞いてよ。」と、姪から連絡があった。すぐに録音の用意をした。

OBSラジオ「私の作文コンクール」入賞作品の発表より。
「ひみつの 気もちぎんこう」
カランカランカラン、この音はピンクコインの音。いいことをしたら つうちょうにたまります。ガランガランガラン、この音は青コインの音、いじわるをしたり、わるいことをしたりしたらわたしは、ママに つうちょうにたまります。
わたしは、ママに ひみつのきもちぎんこうの かぞくつうちょうをつくってあげようとおもい おてがみをおくりました。
― 略 - 
 わたしはどんなときに青コインがふえるのかかんがえてみました。人のことをわるくかんがえたり わるぐちをいったりすると ふえるのだとおもいます。
― 略 -
わたしは青コインをへらすほうほうをかんがえました。
ひみつのきもちぎんこうの ばんとうさんは ピンクコインがふえると そのぶん青コインがへるのだといっていました。
これから ともだちにやさしくしたり わるくちをいわなかったり おてつだいをしたりして みんなを えがおにしていきたいとおもいます。
まいにち ピンクコインをふやしていきたいです。

子どもは子どもなりに課題も見つけその解決方法を考えている。
道徳教育の出発は子どものことは子どもに聞いてみると参考になることが多く秘められている。活用しない手はない。


教育の基本 53 生まれ子がしだいしだいに・・・(一休禅師) 


産声を上げて休むことなく成長していく。善い知恵も悪い知恵も善行も悪行も分け隔てなくどんどんと身につけて大人になっていく。仏から遠く離れていく。
仏とは何か。ということが問題になるが、ここでは「慈悲心」、天真爛漫、無念、無想、無心、清浄無垢(しょうじょうむく)、慈しみの心とでも定義しておこう。
歳を重ねたかからといって自然に仏に近くなるわけではない。学習や体験を重ねて、仏に近づく修行をして、ひょっとして近づくことができるかもわからない程度である。
人間は、善い知恵も悪い知恵も善行も悪行も精一杯背負い込んで生涯を終える。ほんの少しだけ善い知恵や善行が悪い知恵や悪行を上回るか抑え込む力をつけることが道徳教育であろう。
成長の過程でその質や量が変化していくので、成長の実態に応じた「道徳教育」の課題と学びの方法を考えなければならない。
小学校1年生には1年生なりのレベルの道徳的課題と学びの方法がある。
道徳教育を担当する教師は幅広く深く研修を重ねていかなければ、なかなか手に負えるようなものではない。だからといって避けて通ることはできない。
教育の中核は道徳教育であり、教師になった以上「道徳教育」を全身全霊で受け止める宿命を担っていることを自覚しなければならない。
悪い知恵や悪行を多く背負い込んでいる人ほど善い知恵や善行がよく理解でき、これから成長していく人をうまく導いていく知恵も多く持っていることが多い。
仏に遠くなったからといって不安に思うことはない。善く導くことが大切なことである。